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津地方裁判所 昭和36年(行)4号 判決 1961年10月21日

判  決

三重県津市桜ケ岡町四番地三重刑務所在監

原告

片山薫

右同所

被告

三重刑務所長

上沢隆

右指定代理人検事

豊島利夫

右指定代理人法務事務官

北河登

駒田三男

木戸甚太郎

近藤篤敬

右当事者間の昭和三六年(行)第四号図書閲読禁止処分等取消請求事件について、当裁判所は昭和三六年九月一八日終結した口頭弁論に基ずき、次のとおり判決する。

主文

一、被告が原告に対し、昭和三五年一二月二三日「戦後小説集、二」、昭和三六年二月三日「註解監獄法」、同年三月九日「監獄法規集」及び同月二一日「刑政六六巻五号」(矯正協会発行)を購入して閲読することを禁止した処分ならびに昭和三五年一二月九日「刑政」、同月二三日「日本」文芸春秋」及び昭和三六年二月一一日「オール生活」を毎月購入して閲読することを禁止した処分は、いずれもこれを取り消す。

一、被告が原告に対し、昭和三六年五月一三日、一五日間の軽屏禁執行期間中戸外運動、入浴及びラジオ放送の聴取を禁止した処分ならびに同年八月一二日右同様の禁止をした処分は、いずれもこれを取り消す。

一、原告のその余の請求を棄却する。

一、訴訟費用は被告の負担とする。

事実

原告は、主文第一、二、四項同旨の判決及び「被告は原告に対し朝日新聞の夕刊を閲読させなければならぬ義務あることを確認する」旨の判決を求め、その請求原因として次の如く述べた。

第一、原告は、昭和二八年一二月一七日殺人未遂罪により広島地方裁判所において懲役八年の判決を受け、昭和二九年一月二九日広島刑務所に入所したが、同年八月三日名古局刑務所に移送され、更に昭和三一年八月二五日三重刑務所に移送され、以来同刑務所に在監中の受刑者であり、被告は、右刑務所の所長としてその管理運営を司どる者である。

第二、図書購読禁止処分について

一、原告は被告に対し、昭和三五年一二月二〇日「戦後小説集二」を、昭和三六年一月二四日「註解監獄法」を、同月二〇日「監獄法規集」を、同年二月二一日「刑政六六巻五号」を購入して閲読することを申し出たところ、被告は、監獄法第三一条第二項、行刑累進処遇令(以下処遇令と略称)第五七条に基ずきそれぞれ昭和三五年一二月二三日、昭和三六年二月三日、同年三月九日、同月二一日右申出を教化上特に必要あるものとは認められないとして許さず、原告の右図書の閲読を禁止した。

また、原告は被告に対し、昭和三五年一一月二八日「刑政」を、同月二一日「日本」「文芸春秋」を、昭和三六年一月七日「オール生活」を毎月購入して閲読することを申し出たところ、被告は、前記法規に基ずき、それぞれ昭和三五年一二月九日、同月二三日、昭和三六年二月一一日右申出を教化上特に必要あるものとは認められないとして許さず、原告の右図書の閲読を禁止した。

なお、原告は右処分当時処遇階級が第三級にあつたのであるが、「戦後小説集二」については第二級以上の者は閲読が許されていたのであり、「日本」「文芸春秋」については昭和三五年一一月までは原告自身も閲読が許されていたのであるが、被告は昭和三五年一一月一五日矯正甲第九三四号矯正局長通達が発せられ許されないことになつたとして右禁止処分をしたのである。

二、しかしながら被告の右購読禁止処分は次の如き理由によつて違憲である。すなわち、憲法第一九条にいう思想の自由は、人格形成の中核をなすものであり、絶対に外的権威の制約を受けないものである。この自由は懲役監に在る受刑者といえども奪われるものでない。そして思想の自由及び思想を外部に発表する表現の自由(憲法第二一条)につらなるものとして国民には知る自由と権利が認められている。それは憲法が個人主義と民主政治の原理に立脚しており、健全な民主政治が行われるために民衆の意思の自由な表現と自主的な判断によつて政治が動かされなければならず、したがつて国民にはすべてを知る機会と手段とが与えられるべきであるということに基ずく。この知る自由が重大な基本的人権に属することは多言を要しないところであつて、国民は新聞、雑誌その他の印刷物やラジオ放送等を自由に読み又は聴取する権利を有する。したがつて受刑者の図書閲読も本質的には自由であり、刑務所長の許可があつてはじめて閲読できる性質のものでなく、閲読の自由に対する制限は、監獄の特別権力関係のもとにおいても、合理的理由すなわち拘禁目的及び管理上物品取扱手続面からする制限の必要のないかぎり、加えることができないものである。また、いうまでもなくこの自由は処遇階級別の如何にかかわりなく全受刑者に等しく保障されているものである。したがつて第三級以下の受刑者に対し原則として私本閲読を許さないものとする処遇令第五七条の規定は、明白に憲法に反するものである。累進処遇の精神は受刑者の最低線を保障したうえで階級の進むにつれて次第に処遇を緩和することにあると解さなければならない。また、受刑者といえども出所すれば選挙権を回復するところからいつて、受刑者が服役中選挙権を停止されていることを理由にその知る自由に制限を加えうべきものではない。とすれば、被告のした前記図書の購読禁止の各処分は、いずれも合理的な理由なくなされたもので、原告の右の如き知る自由という基本的人権を侵害する違憲の処分というべきである。

また、被告は前記購読禁止処分につき監獄法第三一条第二項、処遇令第五七条に基ずくものとして行つているのであるが、それらはいずれも違憲の法規である。すなわち、監獄法第三一条第二項は図書の閲読に関する制限を命令に委任しているが、右の如き重大なる基本的人権に対する制限に関して、このように委任の範囲が非常に広い抽象的・一般的な委任を規定することは現憲法上許されない。もちろん憲法は法律の委任を容認しないものではないが、基本的人権に対する制限の如き重大な事項については、法律の委任はできるだけ具体的にかつ限られた事項に関してのみ認められるべきで、広汎な無限定・一般的な委任は許されない。したがつて監獄法第三一条第二項および処遇令第五七条は、この点において違憲の法規というべきで、右法規に基ずく被告の前記図書購読禁止処分は違憲である。

よつて、原告は被告に対し右各図書購読禁止処分の取り消を求める。

第三、戸外運動、入浴及びラジオ放送聴取禁止処分について

一、被告は、原告に対し、昭和三六年五月一三日原告の紀律違反行為(坂本欣也との間の密書の授受及び久世看守に対する暴言)に対する懲罰として一五日間の軽屏禁及び一五日間の文書図画の閲読禁止を決定し、同時に右軽屏禁執行期間中原告の戸外運動・入浴及びラジオ放送聴取を禁止する旨の各処分をも決定した。(なお、右懲罰及び右各処分は同年七月二五日から同年三一日まで一部執行され、残期間については現在執行停止中である。)次いで、被告は、原告に対し、同年八月一二日原告の紀律違反行為(宮沢徳行との間の官本の交換、寺田看守及び清水区長に対する暴言及び板井邦夫との間の密書の授受等)に対する懲罰として一五日間の軽屏禁を決定し、同時に前同様右軽屏禁執行期間中原告の戸外運動・入浴及びラジオ放送聴取を禁止する旨の各処分を決定した。

二、しかしながら被告の右各処分は、次の如き理由によつて違憲違法である。すなわち、

(一)  戸外運動及び入浴を禁止した処分について

軽屏禁罰が、被告主張の如く、受罰者を独居房に静居させ、室外に出すことなく外界との接触を断つことによつて、拘束感と淋しさとのうちに反省に専念させることを目的とするものであるとしても、その執行にあたり受罰者の健康保持に必要な手段までも剥奪するものであつてはならない。軽屏禁執行中といえども、受罰者に対してその健康を保持するに必要な戸外運動及び入浴は、これをさせなければならない。それは憲法第二五条、第三六条、監獄法第三八条、同法施行規則第一〇六条の保障するところである。また、このことは監獄法第六〇条第一項第八号が懲罰としての運動停止を五日以内に制限していること及び同条第三項が懲罰は併科しうるとしていることからみても明らかである。けだし右規定によれば、運動停止の懲罰が科せられてはじめて五日以内だけ運動を停止しうるのであつて、それ以外に、また五日を超えて戸外運動を停止することは許されないからである。

殊に、原告は、昭和三〇年六月二四日から継続して現在まで独居拘禁に付され、この長期独居拘禁による運動不足のため胃腸衰張及び神経痛を患つている。そのため原告は戸外運動の時間を特にその必要が認められて四〇分に延長されている。したがつて、このような原告の健康状態からしても戸外運動及び入浴は必要欠くべからざるものである。

なお、被告主張の如く入浴日に湯を与えて拭身させる程度では、健康保持上不衛生であることに変りはない。

以上の如く、戸外運動及び入浴を禁止する被告の処分は、監獄法第三八条、第六〇条等の監獄法規に違反するのみならず、原告の健康な生活を営む権利(憲法第二五条)を侵害し、刑罰としての残虐性を帯びる(同法第三六条)違憲の処分である。

よつて原告は被告に対し右戸外運動及び入浴禁止処分の取消を求める。

(二)  ラジオ放送聴取禁止処分について

ラジオ放送を聴取することも、前記図書購読禁止処分に関して主張した国民としての知る自由という基本的人権に属する。したがつて、この自由に対する制限は、監獄という特別権力関係のもとにおいても、合理的な理由のないかぎり加えられないものである。このことは、懲罰執行中といえども同様である。この点において、被告の右処分は何ら合理的な理由なくして原告の知る自由を侵害するものであつて憲法に違反する。

また、監獄法第六〇条は一二種類の懲罰を定め、それ以外の懲罰を科しえないことを保障しているが、右一二種類の中にはラジオ放送の聴取を禁止する旨の規定がない。したがつて、被告の右処分は監獄法上も許されていない違法な処分といわねばならない。

なお、この点に関する被告の主張について、原告の収容されている三重刑務所第三舎独居房には、受罰者だけでなく、昼夜独居その他の者が多数収容されていてラジオを聴取しており、したがつて隣房あるいは前房等でしきりにラジオがなつて喧燥な状況下にある。それゆえ、たとえ受罰者のラジオ放送聴取を禁じても、被告主張の如き反省静居とならないばかりか、却つて受罰者の反感を誘起している状態である。

第四、朝日新聞夕刊を閲読させなければならない義務確認請求について

原告は、被告に対し昭和三四年二月四日新聞の閲読を願い出たところ、被告は同月一六日から伊勢新聞の閲読を許すようになり、その後約十カ月して、伊勢新聞に代え朝日新聞朝刊の閲読を許すようになつた。しかしながら、被告は、朝日新聞の夕刊については全然これを閲読させない。

この新聞閲読も、前述の知る自由に属し、これに対する制限は、監獄という特別権力関係のもとにおいても合理的な理由のないかぎり加えられないものであり、被告が朝日新聞の夕刊の閲読を全面的に禁止しているのは、右の自由を侵害し憲法に違反するもので許されないところである。原告には上述の保障の限度で夕刊を閲読する権利があり、他方被告にはその閲読させなければならない義務がある。

よつて、原告は、被告に対し朝日新聞の夕刊を閲読させねばならない義務あることの確認を求める。

第五、被告の本案前の申立に対する主張

一、一般に公法上の特別権力関係は、特別な法律関係に基いて成立する関係であり、設定目的のために必要な限度で法治主義の原理の適用が排除され、営造物を管理する者は、管理権に基ずき個々の具体的な法律の根拠なしに包括的な支配権の発動として命令強制をなしうると説かれている。しかしこのことが監獄収容関係にもそのまま妥当し、管理者は受刑者に対し拘禁目的に必要な限度と範囲において具体的な法律の根拠なしに命令強制を行いうると速断することは許されない。なぜならば、監獄収容関係は、法律によつてのみ成立するものであつてて収容者にとつては全く害悪と屈辱の場であり、それがもたらす効用ないし利益はもつぱら一般社会にのみあつて受刑者にはなく、この点において公立学校における勉学関係、公務員としての勤務関係、公立病院の入院関係その他公法上の特別権力関係が当該私人に利益を与えつつ公の目的を果しているのと全然趣を異にしているものがあるからである。被告はこのような一般の公法上の特別権力関係と異る特色を有する点を故意もしくは不注意に没却している。

被告と原告との間には包括的な命令服従関係がみられ、被告は原告に対し命令強制を加える権能を有するが、右命令強制であつて人権の制限に触れるものは、法律に基ずく執行としてでなければ許されない。しかも、その法律は合憲なものであることを要し、違憲な法律であればこれに基いて命令強制し、人権に制限を加えることはできないのである。原告の主張する被告の処分は、いずれも原告の人権に対する制限となるものであり、かかる人権に対する制限は法律に基ずく執行としてでなければ許されないものである。そして、特別権力関係における処分でも、法律の規制に違反し、また存立目的から合理的に不可欠と考えられる範囲を逸脱し社会観念上著しく妥当を欠いている場合には、司法審査の対象となりうるものである。ところで原告の主張する被告の処分は、法律上根拠がないのみならず、憲法に違反するものである。したがつて、右処分に対しては司法的救済を求めうるものであつて、原告の訴は適法である。

二、公法上の義務確認訴訟も、権利保護の資格及び権利保護の必要ないし利益があるかぎり適法であり、本訴はいずれもこの適法要件を充している。本請求については、事前審査のほかに適切な救済手段が存在しないのであつて、被告の主張は失当である。

証拠(省略)

被告は、本案前の申立として「原告の訴を却下する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決を求め、その理由として次の如く述べた。

一、(一) 原告は、その主張のように殺人未遂罪により広島地方裁判所において懲役八年に処せられ、昭和二九年一月二九日広島刑務所に入所したが、派閥抗争のため同年八月三日名古屋刑務所へ移送され、更に暴動企図のため昭和三一年八月二五日三重刑務所に移送され、同刑務所の懲役監に拘禁されて現在に至つている者である。

(二) ところで、懲役監は懲役に処せられた者を拘禁する公の営造物であるから、その管理運営を司どる被告と懲役監に拘禁されている原告との間には営造物使用の特別権力関係が成立している。この特別権力関係は、特定の行政目的のための国の特別権力の発動の関係であり、その目的に必要な限度において特定者に包括的な支配権が与えられ、特定者がその支配に服する関係である。したがつて、被告は懲役監設置目的に必要な範囲と限度において包括的な支配権をもち、原告はこれに包括的に服従する義務を負つている。

(三) そして、右支配権に基ずき、被告は、原告に対し具体的な法律の根拠がなくとも必要に応じ一方的に権利を制限し、義務を負担させることができるのである。このことは、たとえ原告の基本的人権に関する場合であつても異ならない。なぜなら、もともと人権保障は一般的法律関係において成立するものであり、特別権力関係という特殊な法律関係においては特殊な取扱いが認められなければその意味がなく、その法律関係の存立目的を達成するために必要な特別扱いは当然許されなければならないからである。もとより基本的人権は最大限に尊重されなければならないものであり、右特別扱いは特別権力関係存立の目的達成に必要かつ合理的な範囲に限らるべきことはいうまでもない。そして、基本的人権の制限となるような命令強制については、法律で具体的にその発動の基準が明示されることが望ましいことはいうまでもないが、必ずそうでなければならないということはできない。法律の具体的根拠がないからといつて、特別権力がその目的を放棄することが許されるはずもないからである。大体懲役監は、受刑者を拘禁し、定役に服させて改善、矯正する施設であり、性来自由を欲する人間を多数拘禁してその生活を管理するのであつてみれば、監獄の作用が強権的になる一方、複雑多岐にわたり専門的、技術的になるのは避けられないし、また、あらゆる場合に応じてつねに適切な処置を措ることが要請される。したがつて、この需要のすべてを満たす具体的規定を法律に設けることは不可能であつて、監獄法はその重要な事項について規定するにとどめざるをえないのである。

(四) 以上の如く、原告主張の被告の処分は、右のような特別権力に基ずくものであるから、司法審査の対象とならない。けだし、被告の処分が懲役監設定目的による限界を踰趣して原告の権利を侵害した場合ならば、原告の一般人としての地位を侵害したこととなり、原告は一般的法律関係における救済、すなわち司法的救済を受けられるであろうが、被告の処分が設立目的に必要かつ合理的な範囲でなされている以上は、原告の一般人としての地位の侵害ということはなく、特別権力関係の内部的な問題にとどまるからである。したがつて、かような処分の取消を求める原告の訴は、司法審査の対象となる適格がないものについて司法審査を求めるものであつて、不適法な訴といわねばならない。

二、原告の請求中、「朝日新聞夕刊を閲読させねばならない義務のあることの確認」の請求は、公法上の義務の確認を求めるものに他ならないが、およそ行政権を発動するか否かについては、三権分立の建前から、あくまで行政庁に決定権が委ねられており、司法審査は事後審査の地位にとどまるものと解すべきである。したがつて、原告の右請求は、司法審査の限界を越え、行政庁の行政権発動の決定権を否定するものであつて不適法である。

本案の申立として「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする」旨の判決を求め、答弁として次の如く述べた。

第一、請求原因事実第一は認める。

等二、請求原因事実第二のうち、被告が原告主張の如き図書購読申出に対していずれも禁止処分をしたことは認めるが、右購読禁止処分は次の如き理由に基ずくものであつて違法ではない。すなわち、原告は処分当時処遇階級第三級に属していたが、監獄法第三一条第二項、処遇令第五七条によれば第三級以下の受刑者には、教化上特に必要があるとき私本の閲読を許すこととされている。被告は右法規に基ずき原告の購読申出した図書がいずれも教化上特に必要あるものとは認められなかつたので、その購読を許可しなかつたのである。

そもそも、受刑者に図書閲読の自由があり、それが基本的人権に結びつくとしても、監獄目的からする制限は許容されなければならない。監獄の紀律は監獄の作用を保全遂行するうえに欠くことのできないものであり、それが合理的なものであるかぎり、これを害するような図書の閲読が制限されるのは当然である。ところで現在行われている累進処遇制は、受刑者の改悛を促し、その発奮努力の程度に従つて処遇を緩和し、受刑者をして漸次社会生活に適応させることを目的とする(処遇令第一条)制度であり、自由に伴う責任を果しえず社会生活に適応できなかつた犯罪者をして責任観念を自覚させ、それに応じて自由拘束を緩和し、社会的自由を与えて適応能力を養わせようとする教育方法である。したがつて、責任観念の乏しい者は厳格な処遇を受け自由拘束の程度が強くなることとなるが、それは正しい努力に対する正しい報償という社会生活上の基本原理の具現であり、受刑者の改善目的を達するうえで優れて合理的な手段である。ところで、処遇階級第四級はもつぱら反省悔悟という精神的改善の時期であり、第三級は指導訓練の時期であつて、第三級以下では徳性の涵養に主眼があり、倫理宗教的教化及び基礎的な教育が必要とされる段階である。したがつて、その補助手段たる図書閲読も、そのような教化に必要なものに限るのが合理的であり、相当である。かような理由により、前記法規及びそれに基ずく被告の処分は、合理的なものとして是認さるべきである。

原告は、被告の前記処分をもつて思想の自由を侵害するもののようにいうが、思想の自由は内心の自由であつて、その侵害は思想を外部に表白することを強制するような形でしか起りえないものである。

また、原告は思想の自由と表現の自由につらなる基本的人権として、知る自由を説きその侵害を主張するが、受刑者には政治への参与の中核をなす選挙権、被選挙権が停止されている(公職選挙法第一一条)のであつて、参政権行使のための知る自由であるならば、参政権自体の制限によつてその保障が縮少されているとみなければならない。

更に原告は、監獄法第三一条第二項は広汎な無限定・一般的な法律の委任であつて許されないというが、右規定は、監獄収容者の図書の閲読の制限について、監獄目的からする制約のもとに命令に委任したのであつて、決して広汎な無限定・一般的な委任ではない。

第三、戸外運動入浴及びラジオ放送聴取禁止処分について

一、請求原因事実第三のうち、被告が原告主張の如く、原告の紀律違反行為に対する懲罰として昭和三六年五月一三日、同年八月一二日それぞれ一五日間の軽屏禁を決定したこと及びその間ラジオ放送の聴取を禁止する旨決定したことはいずれも認める。戸外運動及び入浴は、右軽屏禁罰の効力として当然禁止されるものである。

二、しかしながら、被告が軽屏禁の効力として戸外運動及び入浴を禁止すること及び軽屏禁執行期間中ラジオ放送の聴取を禁止する処分は、次の如き理由に基ずくものであつて違法ではない。

(一)  戸外運動及び入浴を禁止することについて軽屏禁は、紀律違反者に対し二月以内で言い渡すことのできる懲罰であり、その期間受刑者を罰室、すなわち独居房内に昼夜屏居させるものである。その執行にあたつては、監獄医をして受罰者を診断させ、その健康に害がないと認めた場合にこれを開始し(監獄法施行規則第一六〇条第二項)、その執行中は監獄医をして時々受罰者の健康を診断させ(同規則第一六一条)、執行終了後もすみやかに健康診断をすることになつている(同規則第一六三条)。執行中受罰者に疾病等の事由があれば執行を停止することはもちろんである(監獄法第六二条第一項)。三重刑務所においては、健康診断は屏禁執行開始前、その終了後及び執行中一〇日目毎に行なつているほか、常時看守等の巡視により受罰者の動静を視察し、その身体に異常があれば監獄医に診断させている。入浴に関しては、一般受刑者の入浴日に湯をもつて拭身させている。かように、軽屏禁は受罰者の健康に十分留意してその健康が保障される範囲でなされるものである。

更に、屏禁罰は、受罰者を独居房に静居させ、室外に出すことなく、外界との接触を断つことにより、拘束感と寂しさとのうちに反省だけに専念させることを目的とするものであるが、厳正に遵守されるべき監獄の紀律に違反した者に対して黙居反省させるため右のように一層きびしい居所の隔離と行動の制限を行うことのあるのは必要やむをえざることであり、戸外運動入浴のためとはいえ受罰者を室外に出すことは右のような屏禁罰の性質に反するものといわなければならない。

かような理由から考えて、前述の如き健康に対する配慮のもとに二月以内という限度で執行される軽屏禁及びその内容をなす戸外運動及び入浴の禁止は、決して残虐なものと考えることができない。

また、原告は、戸外運動及び入浴の禁止が憲法第二五条に違反すると主張するが、憲法第二五条は、国家権力による健康、すなわち身体生命に対する侵害からの保障を定めたものでなく、国民一般に対して概括的に健康で文化的な最低限度の生活を営み得るよう国政を運営すべきことを国家の責務として宣言したものであり、本件で問題とされるべき規定ではない。

また、原告は、戸外運動の禁止を軽屏禁の効力とすることは監獄法第六〇条第一項第八号、第三項の規定に反すると主張するが、しかし同法第六〇条第一項、第三項の規定の形式から各懲罰が別個独立のもので必ず併科できるものとかぎられないことは、同条第一項第二号と第三号、第一一号と第一二号との関係からみても明瞭であり、かつ右各号が進むにつれて順次懲罰の内容が重くなつていることからみて、その性質上許される場合には重いものか軽いものをその内容の一部としていると解釈することは少しも不合理な態度ではない。

(二)  ラジオ放送聴取禁止処分について

原告主張の知る自由が基本的人権であるとしても、受刑者については限定的にしか保障されていないものであることは、すでに図書購読禁止処分に関して述べたとおりである。被告のラジオ放送聴取禁止処分については、次の如き合理的な理由がある。すなわち、三重刑務所においては、収容者のラジオ放送聴取について内規を定め、懲罰中の者に対してはラジオ放送の聴取を禁止することにしているが、その理由は、懲罰の作用が反則者をして悔悟反省させることにあるので、そのためには静かな環境を必要とするからである。ことに、原告が言渡を受けた軽屏禁は、前述の如く、受罰者をして外界との接触を厳重に断ち、独居房に静居させ、反省に徹しめようとするものであり、より一層静かな環境を必要とする。また、反則者を独居拘禁するに当つては、保安上十分な注意を要するのであるがラジオ放送による喧燥な環境のもとでは保安上の注意に欠陥を生じるおそれがある。

また、懲罰中のラジオ放送聴取の禁止は、処遇階級の低下というような不利益な処分が懲罰ではないと同様に、本来紀律維持のために反則に対する反動として反則者に加えられるものではないのであるから、したがつて懲罰の性質をもつものではない。

第四、朝日新聞夕刊を閲読させねばならない義務の確認請求について

請求原因事実第四のうち、被告が原告主張の如く原告に対し朝日新聞の夕刊を閲読させていないことは認める。しかしながら、三重刑務所においてはこの地区に夕刊の配達される時間が午後六時から六時半頃であり、その後において検閲及び不当個所抹消の事務をとることができないために、夕刊を購入していないのである。もともと夕刊は娯楽面、家庭面に重点が置かれており、新聞本来の使命である報道面においては、朝刊と朝刊とのつなぎ的な役割をもつにとどまつている。このことを考えると、夕刊の閲読をさせていないことは、右の如き監獄の取扱管理能力からするやむをえない制約として相当とされなくればならない。

なお、現在原告は伊勢新聞を閲読しており、伊勢新聞は夕刊に相当するものもいわゆる一セツト版として組入れているのであつて、原告は実質的には夕刊相当分も閲読しているのである。

証拠(省略)

理由

第一、特別権力関係と本訴の適否について

原告が、昭和二八年一二月一七日殺人未遂罪により広島地方裁判所において懲役八年の判決を受け、昭和二九年一月二九日広島刑務所に入所したが、同年八月三日名古屋刑務所に移送され、更に昭和三一年八月二五日三重刑務所に移送され、以来同刑務所に拘禁されていることは当事者間に争いがない。

ところで、三重刑務所は、懲役に処せられた者を拘禁する所として国が設置し、国の意意により支配され運営される営造物で、同営造物の主体である国と同営造物に懲役受刑者として拘禁されている原告との間には、懲役監収容という営造物使用関係が存在する。そして、懲役監という営造物の管理運営を司どる刑務所長たる被告と、その収容者たる原告との間には、懲役刑の執行という特定の設定目的に必要な範囲と限度とにおいて、被告が原告を包括的に支配し、原告が被告に服従すべきことを内容とする関係、すなわち公法上の特別権力関係が成立している。

一般に、公法上の特別権力関係は、特別の法律原因に基ずいて成立する関係であり、設定目的のために必要な限度において法治主義の適用が排除され、当該関係の権力主体たる者は個々の具体的な法律の根拠なしに包括的な支配権の発動としての命令強制をなしうるものである。これを本件についてみれば、有期懲役刑の執行の目的、すなわち受刑者を拘禁しかつ定役に服させることにより、一方においては当該受刑者を矯正、教化その社会適応性を回復、増進させ、他方においては社会的危険ある者を社会から隔離して一般社会を防衛するという目的を達成するのに必要な限度においては、右の特別権力関係の法理が妥当するものといえよう。けれども、それはあくまでも右目的を達成するのに必要な限度において妥当するにとどまるものといわねばならない。したがつてこれがため受刑者が身体の自由を拘束されるのはやむをえないところであつても、拘禁が法律に基ずいて容認された以上、受刑者のすべての人権の制限が当然それに包括され、右目的の限度を超えて人権の侵害が許されるわけではない。そのような人権の侵害が許されるわけではない。そのような人権の侵害は、汎く人権を保障し尊重する憲法の精神に照して到底容認できないところであつて、身体の自由以外の権利に対する制限についても懲役監の設定目的に照して必要最小限度の合理的制限のほかは認めらるべきでない。ただ、有期懲役刑の執行については、事柄の性質上多分に技術的専門的、科学的分野に亘る面が多いため、法は人権に触れることが多い重要な若干の事項につき規定するのみで、その他を監獄当局に委ねているのであるから、被告は憲法をはじめとする法令のわく内において、委ねられた範囲の自由裁量行為をなしうるものと解される。

かようにみてくると、原告と被告との関係が特別権力関係に包摂されるからといつて、直ちに右特別権力関係に基ずく支配行為は絶対的なもので、これに対して司法救済の途がないということはできない。特別横力関係に基ずく命令、強制も、法の規定に違反し、また右関係を成立せしめた前記の目的から合理的に不可欠と考えられる範囲を逸脱し、社会観念上著しく妥当を欠いている場合、要するに違法に基本的人権を侵害するごとき場合には、これに対する司法救済を求めることができるというべきである。

しかして、これを原告の本訴請求についてみれば主張の被告処分は、いずれも原告の基本的人権を制約するものであつて、単に特別権力関係内部の事柄に止まらず、司法的救済の対象となりうるものといわねばならない。

したがつて、本訴を司法審査の対象とならない不適法な訴であるとする被告の主張は、失当として排斥を免れない。

第二、図書購読禁止処分について

被告が原告主張の如き図書購読禁止処分をなしたことは当事者に争いがない。よつて右処分の適法性について判断する。

何人も、いかなる図書であろうと、それる読む自由をもつ。その自由は憲法第一九条の保障する思想の自由そのものではないが、自己の思想の形成につき自由でなければならないことから必然的に導き出される思想形成の手段としての基本的人権である。それは思想の自由と密接不可分の関係にあつて、民主主義の基盤をなす国民の精神的自由の確保のために、厳格に保障されねばならないものである。それゆえ、この自由の保障は、懲役監収容関係という公法上の特別権力関係にある受刑者に対しても当然に及ぶべきであり、したがつて受刑者の図書購読も本質的には自由であつて刑務所長の許可によりはじめて閲読できる性質のものではない。といいうる。ただ懲役監収容関係という特別権力関係の設定目的からみて、合理的に不可欠と考えられる限度において、右の自由に制限を加えうるだけである。つまり懲役監収容関係のもとにおいても、図書購読の自由に対する制限は、その設定目的からみて合理的な理由のないかぎり、すなわち図書購読が拘禁及び戒護上危険であることが明らかな場合、あるいは矯正教化の目的を阻害することが明らかな場合でないかぎり、加えられるべきでない。

かように考えると、処遇階級第三級以下の受刑者に対しては、「教化上特ニ必要アルトキ」にかぎり私本の閲読を許すものとしている行刑累進処遇令(以下処遇令と略称)第五七条は、右の基本的人権としての図書閲読の自由を侵害するものとして、思想の自由を安全に保障しようとする憲法の趣旨に違反する規定といわざるをえない。

被告は、累進処遇制が受刑者の改善目的を達するうえで優れて合理的な手段であることを強調し、処遇令第五七条の合理性を主張するが、かりに累進処遇制が優れて合理的な教育手段であるとしても、それだけでは右の如き重大な基本的人権に制限を加えうる合理的理由たりうるとは考えられない。

また、受刑者が受刑中選挙権、被選挙権を停止されていることから当然に図書閲読の自由に制限を加えることが許容されるものでないことは、いうまでもないところである。けだし、右の自由は思想形成の手段として保障されているものであり、思想形成を受刑中停止しなければならない理由はないからである。

ところで、本件購読禁止処分の対象となつた各図書をみるに、それらの図書の購読が拘禁及び戒護上危険であることが明らかな場合あるいは矯正、教化の目的を阻害することが明らかな場合であるとは到底考えられないし、その他それらの図書の購読を禁止するに足るだけの合理的な理由があるものとも思われない。あるいはその図書の中には矯正、教化の目的にとつて必ずしも有益とは思われないものが含まれているかもしれない。しかし、右にみたように矯正教化の目的にとつて有益でないとの理由のみによつて、その図書の購読を禁止することは許されないのである。

かようにみてくると、原告のその余の主張を判断するまでもなく、監獄法第三一条第二項、処遇令第五七条に基ずき、教化上特に必要あるものと認められないとして被告がなした図書購読禁止処分は、いずれも原告のもつ図書閲読の自由という基本的人権を侵害するものとして、憲法第一九条に違反する処分といわねばならない。右処分の取消を求める原告の請求はいずれも理由がある。

第三、戸外運動及び入浴禁止処分について

被告が原告主張の如く軽屏禁執行期間中戸外運動及び入浴を禁止する旨決定したこと(それが軽屏禁の当然の効力であるか否かはともかくとして)は当事者間に争いがない。

一、先ず戸外運動及び入浴禁止が当然に軽屏禁の内容となるものか否かについて争いがあるので、その点につき判断する。

監獄法第六〇号第二項は「屏禁ハ受罰者ヲ罰室内ニ昼夜屏居セシメ」ることとしている。その懲罰としての意義は、監獄内の紀律に違反した受刑者を罰室内に分離拘禁し、他の受刑者等外界との接触を断ち、静寂孤独裡に置くことによつて反省促進の効果をあげることにある。その意義からすれば、右規定にいう屏居がいかなる場合にあつても受罰者を罰室外に出さないことを意味するものとは考えられない。人間としての生活を維持するに必要なかぎりで受罰者を罰室外に出すことは、屏居に反するものでなく、軽屏禁と矛盾するものではない。換言すれば、軽屏禁は人間としての生活を維持するに必要なかぎりで受罰者が罰室外に出ることを禁ずることまでその内容とするものとはいえない。したがつて、例えば接見等の禁止については軽屏禁の内容となるものといえるであろうが、戸外運動や入浴については、人間としての生活を維持するに必要であるがゆえに、また、そのかぎりで、これらを禁止することは軽屏禁の内容となるものではないと解するのが相当である。このことは、戸外運動に関して、監獄法第六〇条第一項第八号が「運動ノ五日以内ノ停止」につき軽屏禁とは別個の懲罰種類として規定していることからも窺がえるのである。(運動停止の懲罰が軽屏禁より軽い懲罰であるからといつて、当然に軽屏禁に吸収されるとは考えられない)。

また、かりに軽屏禁の当然の効力として戸外運動及び入浴が禁止されるとするならば、最大限においては二カ月間も禁止できることとなり、後に述べる理由からして、軽屏禁自体が憲法に違反する懲罰として無効なものと解すべきことになるのであつて、現行法上軽屏禁につき憲法の趣旨にそつて合理的に解釈するとすれば、前述のように戸外運動及び入浴の禁止をその内容としないものと解さざるをえないであろう。

以上の如く、戸外運動及び入浴の禁止が軽屏禁の内容となるものでないと解されるとすれば、被告が原告に対し軽屏禁執行期間中戸外運動及び入浴を禁止したことについては、被告の主張にかかわらず、右軽屏禁の決定と同時に被告が軽屏禁執行期間中戸外運動及び入浴を禁止する旨の処分を行つたものとして、その適法性が吟味されなければならないことになる。

二、よつて、次に、被告の右処分の適法性について判断する。

一般的に、戸外運動及び入浴が人間として健康を保持するために不可欠なものであることは何人も異論のないところであろう。このことは受刑者にあつても変りがない。それゆえ、監獄法第三八条は「在監者ニハ其健康ヲ保ツニ必要ナル運動ヲ為サシム」と、同法施行規則第一〇六条第一項は「在監者ニハ……戸外ニ於テ運動ヲ為サシムヘシ」と規定し、同規則第一〇五条は「在監者ノ入浴の度数ハ……典獄之ヲ定ム但六月ヨリ九月マテハ五日毎ニ一回、十月ヨリ五月マテハ七日毎ニ一回ヲ下ルコトヲ得ス」と規定して、それぞれ在監者に戸外運動及び入浴を保障しているのであつて、受刑者に対して戸外運動あるいは入浴を全面的に禁止することは許されない。もとより戸外運動あるいは入浴に対して全く無制約であるわけでないことはいうまでもない。監獄の設定目的から考えて、運動時間を制限するなど合理的な制約を加えうることは当然である。けれども、受刑者の健康保持のための最低限度の戸外運動及び入浴はいかなる場合であつても、かりに監獄の設定目的に反するようなことになつても、絶対に保障されていなければならない。けだし、受刑者といえども、人間としての最低限度の生活は、絶対的に保障されていなければならないからである。

そこで、人間の健康を保持するために最低限度どの程度の戸外運動及び入浴が必要とされるべきであろうか。換言すれば、戸外運動あるいは入浴をどの程度以上に制約した場合に人間としての健康を保持することができなくなると考えるべきであろうか。この点は科学的判断を要する困難な問題であつて、いま直ちに明確な基準を示すことはできないところであるが、少くとも本件において被告のなした一五日間戸外運動及び入浴を禁止する処分については、人間としての健康保持のための最低限度の戸外運動及び入浴を侵害するものと認めるのが、経験則に照らして妥当というべきであろう。このことは、前述の如く、監獄法第六〇条第一項第八号が運動停止の懲罰期間を五日以内としていること、同法施行規則第一〇五条但書が、入浴度数について六月から九月までは五日毎に一回、十月より五月までは七日毎に一回を下ることができないとしていることからも窺がわれるところである。したがつて、被告のした戸外運動及び入浴禁止の処分は、人間の健康保持のための最低限度の生活を侵害するものとして、反人道的な性格をもつものといわねばならない。ところで、憲法第三六条は残虐な刑罰を絶対に禁止しているが、そこにいう「残虐な刑罰」とは「不必要な精神的肉体的苦痛を内容とする人道上残酷とみとめられる刑罰」(最高裁昭和二三年六月三〇日判決最高裁判所刑事判例集二巻七号七七七頁)、つまり反人道的な刑罰をいい、しかも刑罰そのものとしては残虐なものでなくても執行方法が残虐であれば、それによつて「残虐の刑罰」となりうるものと解される。とすれば、右にみたように被告の前記処分に反人道的性格がみとめられ、しかも、その処分が懲役刑の執行としてなされているのであるから、懲役刑そのものに残虐性はなくともその執行としての右処分は、憲法第三六条にいう「残虐な刑罰」に該当するものというべく、したがつて、被告が原告に対してした軽屏禁執行期間中戸外運動及び入浴を禁止する旨の各処分は、憲法第三六条に違反する処分といわねばならない。

また、被告の右処分は、現行監獄法規にも違反するものである。すなわち、監獄法第六〇条第一項第八号が懲罰として運動停止を五日以内にとどめていることは、同法第三八条ともあいまつて五日を超える運動停止は懲罰としても許されないことを保障しているものと解すべきであり、同法施行規則第一〇五条但書の定める入浴度数は、すべての場合の最低限度を保障しているものと解されるのであるが、被告の前記処分は、いずれも一五日間戸外運動及び入浴を禁止するものであつて、右の保障の限度をおかし、右法規に違反するものである。したがつて、被告の右処分は、監獄法第三八条、第六〇条第一項第八号、同法施行規則第一〇五条但書に反する違法の処分である。結局いずれにしても右処分の取消を求める原告の請求は理由がある。

なお、被告は軽屏禁の執行にあたつては、執行前、執行中及び執行後監獄医の診断を受けさせ、あるいは入浴日に拭身させるなど受罰者の健康に十分留意しているのであるから、受罰者の健康の保持を侵害することはない旨主張するけれども、戸外運動及び入浴は健康保持にとつて不可欠の要素をなすものと考えられるのであつて、いかにその他の健康管理が万全であろうと戸外運動あるいは入浴が禁止されているならば、健康保持にとつて十分な保障がなされているとはいえないのである。軽屏禁は通常独居房を罰室として行われることは当事者間に争いないところであるが、三重刑務所第三舎独居房(原告在房)についての検証結果から考えて、戸外運動は単に肉体的な健康保持に必要であるばかりでなく、精神的な健康保持にとつても不可欠と思われるのであり、精神的な健康保持の保障については、被告主張の如き健康管理では何らの保障もなされていないものといわざるをえない。したがつて、被告の右主張は、被告の前記処分の適法性を理由づけるものとなし難い。

第四、ラジオ放送聴取禁止処分について

被告が、原告主張の如く軽屏禁執行期間中ラジオ放送の聴取を禁止する旨の処分をしたことは当事者間に争いがない。よつて被告の右処分の適法性について判断する。

ラジオ放送の聴取も、図書の閲読と同様に、思想形成の手段として厳格にその自由が保障されていなければならないものである。ことに現代においては、ラジオ放送は公共的性質を帯び、敏速、的確な国内及び外国の政治、経済、社会全般にわたる事件の報道、その論説等国民に判断の基礎となる材料を提供し、その思想形式にとつて重要な関係を有するものとなつている。したがつて、ラジオ放送聴取の自由の保障も、図書閲読の自由の保障と同様に、懲役監収容関係という公法上の特別権力関係にある受刑者に対しても当然に及ぶべきであつて、受刑者のラジオ放送聴取も本質的に自由でなければならない。それゆえ、懲役監収容関係のもとにおいても、合理的な理由のないかぎり、すなわちラジオ放送聴取が拘禁及び戒護上危険であることが明らかな場合、あるいは矯正教化の目的を阻害することが明らかな場合でないかぎり、ラジオ放送の聴取を禁止することは許されないものにいわねばならない。

ところで、被告はラジオ放送聴取禁止処分の理由として、原告が言渡を受けた軽屏禁が、受罰者に対して外界との接触を絶つて悔悟反省させることを目的としているので、その執行にあたつては静かな環境を必要とする旨を主張しているが、右に述べた基準に照して考えれば、それだけの理由では受刑者のラジオ放送聴取という基本的な自由を制限する合理的な理由とはなりえない。のみならず、軽屏禁の執行を受けている者が、娯楽番組ならばともかく、前述の如き報道、論説を聴くことが軽屏禁の目的に反するものとは思われない。また、被告はラジオ放送は喧燥にわたるため独居拘禁における保安上の注意に欠陥が生ずるおそれがあることもその理由として主張しているのであるが、ただ抽象的にそういうおそれがあるというだけでは、右に述べた拘禁及び戒護上危険であることが明らかな場合にあたるものとは到底認めがたい。その他原告に対し軽屏禁執行期間中ラジオ放送の聴取を禁止するに足るだけの合理的な理由があるものと認めうる主張、立証はない。

かようにみてくると、原告のその余の主張を判断するまでもなく、被告のしたラジオ放送聴取禁止の処分は、原告のもつラジオ放送聴取の自由という基本的人権を侵害するものとして憲法第一九条に違反する処分といわねばならない。右処分の取消を求める原告の請求は理由がある。

第五、朝日新聞夕刊を閲読させねばならない義務の確認請求について

被告は、右請求は被告に対し公法上の義務の確認を求めるものに他ならず、司法審査の限界を趣えるものとして不適法な訴と主張するが、公法上の義務確認訴訟でからといつても、すべて不適法な訴訟であるということはできず、司法審査に服しうるための一定の要件さえそなわれば、適法な訴訟として司法審査の対象となりうると解される。

しかしながら、本請求に関しては、証人三栗家隆信の証言によれば、現在原告は朝日新聞朝刊に代え伊勢新聞を閲読しており、伊勢新聞には夕刊がなく夕刊に掲載されるべき報道分は翌日の朝刊に掲載されているので、原告としてはすべての報道に関して閲読できる状態にあることが認められ、適切な反証はない。そこで右事実によれば、原告の請求は、現在においてはもはや権利保護の必要性が認められないものと解され、したがつて訴の利益を欠くものとして失当であるといわねばならない。

以上の理由によつて、本訴のうち図書購読を禁止した各処分、軽屏禁執行期間中戸外運動、入浴及びラジオ放送を禁止した各処分の取消を求める請求は理由があるからこれを認容し、朝日新聞の夕刊を閲読させねばならない義務の確認請求については理由がないから、これを棄却することとし、訴訟費用につき民事訴訟法第九二条但書を適用して主文のとおり判決する。

津地方裁判所民事第一部

裁判長裁判官 村 上 久 治

裁判官 新 関 雅 夫

裁判官 三 宅  陽

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